他人と同じという安心感を捨ててみる勇気を持つ。(ノーブランドの主張)

  私は、かつて住宅メーカーに勤務しておりました。誰でもご存知であろう東証一部の一流メーカーです。ここで3年間勤務しながら家作りの裏側を見てきました。潤沢な予算でモデルハウスをそのまま実現してしまった人、またそのブランドにしがみ付く様にギリギリの予算でそのメーカーの家を求める人、ハウスメーカーの住宅における幅広い家づくりを見てきました。 

 

 同時に、建築雑誌をむさぼり読み、どうして自分の会社の商品は、雑誌で見かけるような雰囲気に近づけないのか?どうして「もう少し」という選択肢を広げられないのか?毎日大いに悩みました。そこで気付いてしまったのです。

 

メーカーの目指すものは、効率化である。

 

 つまり、最大公約数的な家作りこそ、企業たるメーカーが利益を生む仕掛けです。それはそれで正しいことですし、株主も望むことですから必要な事です。ただ私の頭の中では、他人と同じ家を好まない、自分だけの家を求める少数派が居る事には薄々気が付いていました。

 

 そしてその時、自分が立っている位置と目指したい方向の埋め難い差異に気付くと同時に、その少数派の船頭になりたい気持ちが日増しに強くなっていったの です。そういった理由で一級建築士の資格も在職中に取得し、人生の方向転換を図った訳です。「転職までしなくても・・・」と上司や周りの仲間には声をかけられましたが、建築業界に居ながら、目指す方向と異なる家作りに携わっている「似て非なる」状況が耐えられなかったのです。

 

 家作りを思い立ったとき、誰もが何の疑いも無く住宅展示場を訪れる。それは、現在極めて一般的な流れですし、気に入ったものがあれば、それも悪くない選択肢の一つです。CMで有名な会社を選ぶのも個人の勝手ですし、巨人戦に看板を出している会社を選ぶのもまた然りです。

 

 ただ問題は、気に入ったものが無かった場合それでも、その展示場の中から無理に、もしくは何となく決めてしまっている現状にあると私は考えています。多くの人は、住宅展示場の他にまだ、選択肢が残されていることを知らなすぎる!!ここに私は問題を感じます。

 

 一生におそらく一度であろう、家作りですから、私にとっては見ず知らずの他人でもぜひ楽しんで頂きたい。そんな人が増えることで、長期的には社会が建築 を審判する目が肥えてくると考えるからです。評価に値しない公共建築ができれば新聞の投稿欄で批評が出たり、市民の会話の中で歴史的建造物の保存問題が取 り上げられたり、社会の文化資産である建物に意識が向くのは歓迎すべき流れです。最近は、婦人雑誌でも随分住宅の記事が増えてきましたし、CASA  BRUTUSなど専門的な情報誌も増えています。この流れは確実に強くなります。いや、ならなくては日本の建築文化が廃れます。

 

 ここで、姿のはっきりしないブランドという虚像を捨ててみる勇気を持つことをお勧めします。ブランドを維持することにどれだけの費用が費やされているか、考えたことありますか?

 

 それでは、代わりに何を頼りにすればよいでしょうか?

肝心なのは、実際に現場で手を動かしている人間の技量だというのが私の持論。

 人間の手は正直です。大工の人件費を無理矢理下げれば、当然、その分仕事は雑になるに決まっています。ベニヤ一枚張るのにも、切り口にさっとサンドペーパーをかけるか、かけないかのその気遣いの有無が化粧仕上げの出来を左右するのは、容易に想像できます。

 

 家作りに関係しない人には、お金を払わない、逆に家作りに関係している人には明確に支払う。このように正直なお金の流れを把握することは、ブランドの虚像以上の価値を生むはず。それが、他人と同じ安心感を捨てて得られる対価だと私は考えています。